諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第16回 ~為替相場分析手法の新潮流(その1)-行動経済学~
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為替相場分析手法の新潮流(その1)-行動経済学
1990年代後半から2000年に入って早々の頃は為替市場分析手法に様々な方法が試みられた時期だった。背景は1990年代半ばからPC、Windowsなどのソフトウェア、インターネットが急速に普及。金融技術、金融サービスの革新とともに、データ分析の精緻化や情報通信が活発になったことが大きい。今回はそうした流れを振り返りたい。
為替市場分析の伝統的アプローチ
まずは伝統的な分析手法を確認しよう。ファンダメンタルズ分析とテクニカル分析があり、そこに現実的な需給分析としてフロー分析がからむ。相場の見方、あるいはアナリストのタイプについても、ファンダメンタルズ分析重視派とテクニカル分析重視派がおり、ときとして対立視されることもある。ただ対立する分析手法、どちらが有効か、というよりも、予測期間の長短に応じて軽重が異なるだけだ。ファンダメンタルズ分析とテクニカル分析を総合して相場をみる必要もある。
為替市場分析、相場予測において、まず大切なのは、どの期間の予測が必要か、どの期間の予測をするのか、という点だ。今日の相場か、今週の相場動向か。今月の見通しか、3ヵ月の見通しか。半年あるいは今年の相場予想か。さらには3年先、10年先までの見通しなのか。ここは分析を提供する顧客がどの期間を必要としているかによる。たとえば、FX取引やディーラーにとってはその日の予測が重要だろう。企業にとっては四半期や1年が重要だ。投資家はもう少し長い期間を視野に入れるのではないか。
そのうえでどの分析や材料を重視するか。極端な例として、今日の相場を考える際にファンダメンタルズ分析はあまり役に立たない。当日の経済指標は材料として重要だがあくまでも市場予想に対する強弱のリスクバイアス。本質的なファンダメンタルズ分析は有用ではない。1週間でも同様だろう。一方、今年の相場見通しを考える場合には、ファンダメンタルズ分析、景気物価金利見通しが重要になる。テクニカル分析も価格帯を考えるうえでは参考にすべきだが補助的だ。
基本的に、予測期間が短いほどテクニカル分析の重要度は増す。逆に期間が長くなるほどテクニカル分析の有効性が低下する、というのが自分の見方だ。その理由は、テクニカル分析が値動きだけに着目する分析であり、いわば市場内の論理だけに基づく分析となる点にある。値動きは重要な情報を提供してくれる。市場全体の持ち値や相場観が反映されている。とくに短期プレーヤーはチャートを信じて売買することで、チャートが機能し、機能するが故にチャートを信じて売買する。こうしたチャートの自己強化のループが出来上がり、市場内の論理が強化される。しかし予測期間が長くなればなるほど、市場外からの相場変動要因の影響を受けやすい。それによってテクニカル分析が機能しなくなる可能性が高まる。あるいは「チャート破り」といった現象が生じる。
またそれぞれの分析においても予測期間に応じて何を重視するかが異なってくる。テクニカル分析においてはどのチャートを重視するか。ロウソク足であれば、15分足か、時間足か、日足か、月足か。先々をイメージさせるチャートとしては日足や週足の一目均衡表は有用だろう。ファンダメンタルズ分析においても予測期間に応じて採り上げる材料の相違が明確に異なる。3ヵ月や半年、さらに1年程度の見通しには、景気物価動向、それに応じた金融政策の変化、長期金利の動向が有効だ。いわば循環論的な見方が有効になる。一方、3年、5年、など中長期の予測となると、景気物価金利動向の予測が難しくなり循環論的な見方が当てはまりにくくなる。代わって構造論的な要因、経済構造の変化や資本動向の中長期的な変化、貿易収支や経常収支、資本収支の動向を考慮する必要がある。3ヵ月あるいは半年といった期間の予測に構造論的な要因をメインに考えると相場の予測を誤りやすいだろう。
フロー分析においても同様に何を重視するかは予測期間次第だ。短期であれば投機的なフローを重視する必要がある。3ヵ月や1年となれば資本取引のフローに目配りが必要だ。貿易やサービスによるフローはそう簡単には増減せず、緩やかに変化することから中長期的な分析で重視すべきだろう。
合理的な市場、効率的市場仮説へのアンチテーゼ
90年代後半から2000年代初頭にかけては為替市場の構造、あるいはプレーヤー、ないし取引手法が大きく変化した時代だ。それに応じて様々な分析の模索、試みがなされた。1989年の冷戦終結によって軍事技術が民間に転用されコンピューター技術が普及。インターネット革命で通信技術が飛躍的に向上。金融革新が生じて様々な取引手法が生み出された。裁定取引や統計的な手法を取り入れた取引の拡大、ヘッジファンドの隆盛はその恩恵による。グローバル化は為替市場を活発化させた。
為替市場のプレーヤーが拡大し取引手法も多様化するなか、論理的な市場分析から外れる現象が多々生じていた。典型的な現象がバブルの生成と崩壊だ。これを「ロジカルに」説明したのがジョージ・ソロスだった。手元に彼の著書「グローバル資本主義の危機(邦題)」がある。初版本で発行は1999年1月だ。巻末の解説は元財務官の榊原英資氏が1998年11月9日付で記している。ソロス氏はこの本を著した理由は、これまでの自分の行動の軸にある概念、哲学を詳しく論ずることにある、と述べている。中心概念は「再帰性理論」「相互作用性」だ。市場参加者の心理や行動と相場動向の間の相互作用に着目するもので、バブルの生成とその崩壊を説明する。市場心理を相場分析に取り入れたという点で画期的だ。ここにソロスの先見性があり、自らその考え方によってファンドでポジションをとって巨額の利益を上げた。彼がグローバル資本主義の危機としたのは、経済学における「均衡」という概念に真っ向から批判を投じたためだ。いわく、経済学はニュートン力学に始まる物理学の延長線上にあり、我々の住む現実社会の不完全性を説明することなどできない、と。市場の見方に置き換えれば、市場は均衡点に向かうのではなく、均衡からむしろ乖離しやがて収斂する不安定な動きを繰り返す、ということになろうか。
これは行動経済学の考え方に通じる。経済学では合理的経済主体が前提だ。合理的期待形成仮説がベースにある。しかし実際にはひとは合理的に行動するとは限らない。むしろ非合理的な行動をする経済主体を前提とする方が現実的ではないか。そこに着目したのが行動経済学だ。証券投資論においても合理的経済主体が前提とされている。効率的市場仮説もその流れにある。しかし価格にすべての情報が瞬時に反映されるとすれば、相場を張って儲けることの期待値はゼロだ。しかし実際にはそんなことはない。ソロスは経済も市場も非合理的だと考え、その哲学を実践した。
行動経済学の登場~アノマリー、リスク選好・リスク回避という概念
行動経済学は今では多くのひとが知る理論ないしは概念となっているが、世に知られ始めたのは1990年代後半だろう。2010年代にもなると一般にも広く認知されるようになり、数多くの著書が刊行されている。思うに、行動経済学の先駆けは、シカゴ大学のリチャード・セイラ―教授だろう。その著書との出会いが自分の為替相場分析、あるいは様々な相場の見方に大きな影響を与えた。
旧三菱銀行の本店、合併後の東京三菱銀行の本店の23階には、行員食堂とともに小さな書店があった。98年の初頭のある日、ふらりと寄ったその書店で手にしたのが、98年1月に発行されたセイラ―教授による「市場と感情の経済学~勝者の呪いはなぜ起こるのか」(邦題、原題The Winners Curse, Paradoxes and Anomalies of Economic Life)の初版本だった。少し立ち読みしただけでも極めて有用な書であることがわかり購入し読み込んだ。そこには様々な市場の矛盾やアノマリーがなぜ生じるのか、分析解説されていた。従来の経済理論の現実と弱点、新しい経済理論への道筋を示してくれていた。従来の理論では説明がつかない、様々に散見される事象について、意思決定者や投資家の心理や行動の「歪み」、リスクに対する非対称な振る舞い、によって解明を試みている。
ここから得た概念が、今では広く知られる、リスク回避・リスク選好、だった。期末の手仕舞い、期初の益出し、それまでの値動きやポジションの推量、決算期などタイミングによる行動変化、それによる相場変動リスクのバイアス、などを考える契機となった。それまでのオーソドックスな、奇をてらわない、定量的な数字による客観的分析を踏まえつつ、さらに市場心理や行動の推測を加味し、リスクの傾きの分析を取り入れ多角的な相場分析・予測を始めた。1997年にアジア危機や日本の金融危機がクライマックスを迎え、さらに巨大ヘッジファンドの破綻、急激な為替相場変動を前にした時期。会社内の小さな書店でこの書に出会ったのは奇跡的だ。しかもまだこの頃は、リスク選好・リスク回避といった概念は今ほど知られていなかった。そのためその概念を取り入れた相場予測は市場予測の大勢と異なる場合もあり、それでいながら予測の確度が上がったことで顧客の評価を得た。セイラ―教授には感謝してもしきれない。そのセイラ―教授は2017年にノーベル経済学賞を受賞。その功績を称えられた。
市場心理、意思決定、相場分析における行動経済学
行動経済学は、経済や市場を形成する人間の意思決定・行動における非合理性を見出し、それを踏まえて現実に生じている事象を分析する。それを応用することで、より「人間臭い」、実際の市場の振る舞いに応じた、市場分析・相場予測が可能となる。
ではそうした個々の意思決定はどのようになされるのか。相場は市場における様々な意思決定および行動の集合体だ。市場参加者はいかに意思決定の総体である相場と向き合い、自らのポジション運営にかかる個々の意思決定をしていくのか。個々の意思決定の総合体として形成された相場から、さらにフィードバックを受けて意思決定がなされる。セイラ―教授の行動経済学とソロスの相互作用性の融合が必要だ。市場心理という感情に左右される要素を、いかに合理的客観的に相場予測に組み込むか、が行動経済学的な相場分析であり永遠のテーマだ。
そのうえで、為替アナリストも人間であり、その意思決定、相場分析に意図せざる非合理的な思考が入り込むリスクはないのか、という問題も生じる。極論すれば、相場を当てる、という目的において、ディーラーとアナリストは同じだ。その視野に入れる期間が異なるほか、明確な違いは、当然ながら、ポジションを持っているか否かだ。ただ意思決定に影響するという観点から最も重要なのは、相場観を公表するか否かだろう。ディーラーは密かにポジションを構築し、こっそりと利益確定(あるいは損切り)できる。しかしアナリストは相場予測を公表する。この場合、ポジションを持ったのと同様の心理になるだろう。さらに、手を晒して麻雀やトランプをするようなものだ。アナリストの立場のほうが心理面では圧倒的に不利な立場にある。こうした状況でいかに冷静に状況分析を行い、柔軟に対処できるか、見方を維持すべきか修正すべきか、的確な判断をする必要がある。ディーラーも同様な立場にあるが、アナリストのハードルのほうが高いだろう。
ではコンピューターの判断に任せるか。システムトレードはそうした試みで、今もその手法は日々進化している。人間対コンピューター、いずれが優秀か。知力の対決は将棋やチェスの世界で試みられてきた。有名なのは、チェスの世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフとIBMが開発したチェス専用コンピューター「ディープ・ブルー」との対決だ。1996年にはカスパロフが勝利。しかし1997年にはディープ・ブルーが勝利。対戦は互角だった。今はどうだろう。将棋の世界では棋士がコンピューターを分析に利用し、また対局時の解説において優勢・劣勢を示している。ただときにそれを超越した手が打たれることもある。
ただ相場分析はより複雑でアートに近い。またでは、意思決定や判断を左右する肝心の心得は、となるととたんに人間臭くなる。ものごとを反対側からみる必要がある。逆の立場ならどうするか、どう感じるか、どう考えるか。勝負に晒された棋士たちの考えや感性は参考になる。将棋では故大山名人が記した「勝負のこころ」という書。勝つための極意、己に克つ心について語った書は参考になる。かつて同僚の為替ディーラーに薦めたほどだ。今であれば羽生名人の考え方や感性も参考になろう。ものごとを反対側からみる、という観点からは、辻仁成と江國香織による「冷静と情熱のあいだ」も面白い。恋愛小説だが、青本と赤本の2冊セットになっている。青本は辻仁成が男性の視点で、赤本は江國香織が女性の視点で、同じ時の流れを語っている。ひとつの事実が別の角度から記されていることは、まさに売り手と買い手、同じ相場を異なる観点からみれば別の見え方となるということに、あらためて気づかされる。ドル円相場のチャートはドル高が上、円高が下、が通例だが、ときには天地をさかさまにしてみてみると別の景色がみえるだろう。感情を制御し相場観を客観的にする効果は多少なりともあるものだ。
かくして、人間の感情や心理をどう分析に組み込むか、が、ひとつの流れとなった。一方で、全く正反対の手法も登場する。それは次回に譲ろう。
◇MRAフェロー 深谷幸司
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