諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第11回 ~勃発した日本の金融危機~
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勃発した日本の金融危機
金融危機の勃発
97年秋になると、不良債権問題がついに金融機関の破綻というかたちで火を噴いた。90年代初頭からバブル潰し、とくに不動産バブル潰しのため、容赦ない金融引き締めが行われた。利上げに加え不動産融資には総量規制が設けられ金利・資金量両面から引き締められた。ただ不動産融資総量規制では住宅金融専門会社(いわゆる住専)は対象外となったため、各金融機関は系列の不動産融資関連会社を通じた融資を抱えていた。これが不動産バブルの崩壊により一気に不良債権化。元利払いがままならぬなか塩漬けとなり、政治問題化して95年には国会でも議論がされ「住専国会」となっていた。公的資金注入には世論の反発も多く、母体行の責任が問われ、他のファイナンス金融機関とともに損失処理に迫られた。そうしたなか証券会社では株式市場の低迷もあいまって業績が大きく悪化。拡大路線をとっていた三洋証券が、配下の三洋ファイナンスの不動産融資の焦げ付きと本業の拡大路線・経費拡大・赤字体質の定着の末、1997年11月3日に破綻した。
三洋証券は、三菱銀行で債券ディーリングに従事していた80年代後半に、インターバンク取引を通じて貴重な情報源になっていた。同社は野村證券からの出資を受けていながらも独自路線を歩んでいた。当時の三菱銀行では野村證券を筆頭として債券市場を牛耳っていた「野村軍団」との取引が事実上禁止されるなか、日系証券では三洋証券と山一證券は貴重な存在だった。1988年、バブルの最中に、同社は世界最大級のまるで巨大な体育館のようなディーリングルームを江東区塩浜に建設。異彩を放っていた。すでに90年代半ばには経営悪化に改善の糸口もなく身動きがとれない状況に。自己資本比率は劣後ローンを含めても200%を割り込み低下が止まらず。劣後ローンの借り換え、債務返済の目途が立たず、ついに1997年11月3日に会社更生法の適用を申請した。
最も衝撃だったのは無担保コール市場での債務不履行の発生だった。これがその後の金融機関の相次ぐ破綻の背中を押したと思われる。まさかインターバンク市場で、しかも無担コール市場で債務不履行が生じるとは誰も思わなかった。今回は証券会社の破綻だったが銀行に対しても懸念が高まる。それまでは大蔵省が「護送船団方式」といわれる行政によって金融機関を主導していたため、何らかの救済が市場参加者の念頭にあった。しかし政治情勢、世論はそれを許さず。また金融行政が規制緩和・自己責任に傾くなか救済を望むべくもなかった。これを機に、金融機関同士のカウンターパーティーリスクを意識せざるをえなくなった。個別金融機関の破綻というよりも、こうしてインターバンク市場の機能が劣化ないし停止寸前となることが、まさに金融危機、金融システム危機だ。金融機関はいずれも不良債権処理に苦しんでおり消耗戦の最中、というよりもまだ緒戦。疑心暗鬼となり「次」を探す動きが加速した。
ひとたびそうした流れが始まると歯止めは効かない。北海道拓殖銀行は首都圏から遅れて北海道まで波及した不動産バブルの頂点で不動産融資に前のめりとなり深手を負った。かねてから経営不安がささやかれ、春には救済合併などの道を模索していた。ただ三洋証券破綻以降、同行はインターバンク市場での資金調達が急速に困難に。結果、同年11月17日に資産譲渡と1年以内の清算を決定。都銀としては初めて破綻した。山一證券は法人営業に強味があり、特金ファントラなど「一任勘定」での運用を積極的に行っていた。しかしバブル崩壊で株価が暴落。そうしたなかで損失補填を要求され、その結果で負った損失を「飛ばし」によって隠蔽していたことが明るみになり、同社の信用は失墜した。また破綻した拓銀に主幹事として資金供給していたことも同社への不安を拡大。インターバンクでの取引に支障を来し資金繰りに窮し、結果的に11月24日に大蔵省に自主廃業を申請して破綻した。
一連の動きはまるでドミノ倒しのように短期間で生じた。またいずれも休日に事態が明らかになり、休み明けに市場を迎えるかたちとなった。11月3日は祝日で3連休最後の月曜日。11月17日は土日明けの月曜日。24日は土日に続く振替休日の月曜日で休場。これだけ週末に不穏な事態が続くと市場関係者は「土日祝日恐怖症」になる。当局としては市場が閉じているアジア時間の土日のうちに発表し、休み明けのアジア市場で一気に欧米に先んじて対応しようという考え方だったようだ。その後のリーマンショックでも同様に週末に発表され週明けの市場が対応に追われた。金融当局はシームレスなグローバル市場が一瞬の隙をみせる土日が勝負の時間帯と考え、その姿勢は今も変わらないようだ。
為替市場への影響が深刻に
無担コールオーバーナイト市場でのデフォルト発生、相次ぐ金融機関の破綻は、当然ながら海外金融機関の本邦勢に対する警戒感を強めた。日本の金融機関同士でも疑心暗鬼になった状況では、外銀の姿勢はさらに警戒的になるのは当然だ。その影響は邦銀の外貨ファイナンスや為替取引にすぐに表れた。
邦銀の外債投資、米国債投資は、基本的にドル資金調達により行われている。ただこの調達はレポ取引、すなわち保有する、あるいは購入した米国債を担保とする有担保取引となるためにさほど支障は生じない。問題は外貨建て融資のための外貨ファイナンス。担保として差し出す外貨資産がない。これについてはスワップ取引での調達となる。直物でドル買い円売り、先物でドル売り円買い、の組み合わせ。結果的に当該期間で円資金とドル資金を交換するかたちとなる。ただこの場合、相手方が期間中に破綻した場合には先物の為替取引が債務不履行で浮いてしまうため為替リスクを追うことになる。邦銀の信用力が悪化すれば、当然、そのリスクがレートに上乗せされる。直先スプレッドに信用スプレッドが上乗せされ、結果的にかなり高い金利でのドル調達となる。Liborが基準レートではあるが、実際の調達金利ははるかにそれよりも高くなる。
同様のことは為替予約にも生じる。為替予約は、直物売買と直先スワップの組み合わせだ。ドル売りの先物予約は、直物のドル売り円買いと、スワップ取引による直物のドル買い円売り・先物のドル売り円買いの組み合わせ。当然、先物予約のレートが悪化せざるをえない。直物相場と金利差から理論的に計算される先物相場から、大きく不利な方向に乖離することとなった。
最悪の場合は直物取引にすら影響が生じた。直物取引は2営業日目の受け渡しが基本。したがってその間でさえ為替リスクが生じることになる。とくに週末をまたいだ取引は同じ2営業日でも期間が長く、また週末のイベントリスクに晒されるため、外銀は慎重になった。また厳密には「ヘルシュタットリスク」、すなわち、同日決済でも内外の時間差から受け渡しリスクが生じることもあり、極端な場合にはネックとなった。幸い東京三菱銀行はむしろ国際的な円取引のカウンターパーティとして相対的に安全とみられていたため取引に窮することはなかった。しかし信用リスクプレミアムの上昇からは逃れることはできなかった。
未だに確認はできず、正確な情報かは不明だが、当時、邦銀の外貨調達のあまりの窮状を見かねて、大蔵省が外貨準備による外貨ファイナンスを支援したともいわれる。日銀が円資金貸し出しではなく、外貨資金貸し出しを金融機関に提供するということだ。1995年以降のドル買い円売り介入で外貨準備が増加していたことが役に立ったと思われる。
日本企業へ悪影響が波及
日本の金融機関、金融市場がこのような状況となれば、日本企業にも悪影響が及ぶ。一部の超優良企業、自ら資本市場で資金調達が可能な企業、邦銀のみならず日頃から外資系金融機関とも同様に付き合っているグローバル企業ならある程度影響は軽減できる。しかし多くの企業は銀行を通じてしか金融市場取引を行えない。邦銀が国際金融市場で取引不能に陥り、そこまでではないとしても割高なコストを払うこととなれば、その負担は顧客である企業が負担せざるをえない。
資金調達コストは円、外貨とも上昇。とくに外貨調達金利の上昇は大幅になる。為替取引のレートは悪化。オファービットの乖離=売り買いのスプレッドは拡大する。先物予約のレートも顧客に不利な方向に悪化する。企業も内外金融市場の状況をモニターしておく必要がある。また個別には自社の取引銀行が市場においてどのような位置にあるのか、自社の資金調達や市場取引に悪影響が及ばないか、何か生じたときの取引銀行構成は大丈夫か、日頃から意識する必要性を強く意識させられた。
7月にアジア危機に見舞われ、アジア通貨リスクの管理体制構築を迫られる最中、今度は円資金調達、取引銀行リスク、外貨資金調達、為替取引におけるコスト上昇、などが降りかかった。この時期に企業と銀行の立場は完全に逆転し、銀行は下に、受け身で顧客に選別される側に回った。この頃の優劣がそのまま、その後の業界再編・合従連衡を経ても現在まで続いている。
◇MRAフェロー 深谷幸司