諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第10回 ~混乱を極めた1997年、アジア通貨危機の激震~
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混乱を極めた1997年、アジア通貨危機の激震
経済・金融・市場の不透明感極まる
25年前の11月、日本は未曽有の混乱に見舞われた。金融機関は不良債権処理に追われ大手行でも赤字決算が散見されるようになった。金融機関は少しでも貸し倒れ損失を回避すべく、業績が低迷する企業から「貸し剥がし」=融資の引き上げを行うなど厳しい融資姿勢に傾斜。大手企業は良かったが中小企業は資金繰りに窮するケースが散見され社会問題になりつつあった。市場部門、為替ディーリングルームでは、不良債権問題による直接的な影響はなかったが、国際金融市場において邦銀に対する厳しい見方が強まり、その影響は為替取引や外貨調達に影響し始める。金融規制緩和、金融自由化、いわゆる護送船団方式の終焉。体力勝負となり合併による生き残り模索、市場では脱落者探しが広がり始めていた。
1997年は不透明感が満ちたなか始まった。国内では不良債権問題が金融機関に暗雲を垂れ込めたまま。4月には消費税率が3%から5%に引き上げられることが決まっており、景気悪化懸念が高まっていた。欧州では引き続き経済通貨統合、1999年初に統一通貨ユーロの創設に向け総仕上げの段階に入りつつあった。アジアでは7月1日に香港が中国に返還される予定となっていた。香港統治、経済、そして通貨がどうなるのか。金融センターとしての機能は維持されるのか。いずれ上海にシフトするとの「香港悲観論」もみられた。為替市場においては、香港が中国に返還された場合、香港ドルはどうなるのかが焦点に。香港ドルは米国ドルを裏付けとして通貨発行されるカレンシーボード制がとられ、為替レートは対ドルでほぼ固定相場となっていた。香港の国際金融市場としての優位性は香港ドルの米国ドルペッグ・カレンシーボード制によるところが大きかった。果たして、海外に向けて開いた窓口を中国政府は強制的に閉じこれまでのメリットを放棄するのか。香港ドルと人民元の一体化は生じるのか。ディーリングルームでは、香港ドルと人民元のスプレッドを追いかけることとなった。
欧州では引き続き通貨統合そのものの成否とともに、参加のための収斂基準を巡りどの国が条件を満たせず脱落するのか、が焦点となっていた。とくに、イタリア、スペイン、ポルトガル、が参加できるのかが焦点に。基準は、物価(インフレ率が最も低い国の平均より1.5%以上上回らない)、財政(財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下)、為替(2年間通貨切り下げをせずにERMの変動幅上下15%の範囲内で安定していること)、長期金利(最もインフレ率が低い3か国の平均を2%以上上回らないこと)の4点。とくに財政基準の順守を巡り思惑が交錯していた。市場の見方を図る材料としてもっとも注目されていたのが各国の長期金利動向。参加できるのであれば、ソブリンリスクはありながらほぼ同一水準に収れん。したがって各国間の長期金利差、とくに物価の優等生であるドイツ国債との金利差動向を、参加成否のシグナルとして追い続ける状況が続いた。
アジア通貨危機の勃発
そうしたなか7月にタイを震源にアジア通貨危機が発生する。タイ、マレーシア、インドネシアなど多くのアジア諸国が自国通貨をドルと固定するドルペッグ制を採用していた。しかしそれが維持困難とみた投機筋が空売りを仕掛け、各国通貨当局はドル売り介入で防戦するも弾が尽きて及ばず。ついには変動相場制に移行せざるを得なくなった。
90年代のアジア各国の経済は好調に推移していた。震源となったタイも高成長が続いていた。輸出は好調。内需は堅調。成長率は二桁に迫った。タイバーツはドルとペッグしていたため、95年以降の急速なドル高とともにバーツ高が進んだ。そうしたなか内需が過熱し不動産バブルも発生。高成長・高金利の果実を得ようと海外資金が流入。投資資金に加えて短期資金も流入した。そうしたなかバーツ高による輸出へのダメージと国内需要過熱による輸入増加で貿易収支は赤字に転落する。そのためバーツの割高感が強まり、投機筋はバーツを空売り、投資家は資金を引き揚げた。その結果生じたのがバーツ危機だった。
タイバーツの危機は他のドルペッグ制をとるアジア通貨に波及。マレーシア・リンギット、インドネシア・ルピー、韓国・ウォン、が攻撃される。各国の通貨政策、金融政策、経済政策は大きく混乱。タイと韓国はIMFに支援を要請することとなる。IMFは緊縮財政と金融引き締めを条件とし対外収支の改善を図ったため両国の景気は壊滅的なダメージを受けた。IMFの支援姿勢、原理原則重視のドグマティックなやり方、経済政策強要に批判が高まることにもなる。
アジア通貨危機の原因は、ドルペッグ制による自国通貨の過大評価と、その間に生じた対外債務の拡大における短期資金によるファイナンス、投機筋の空売りと急速な投資資金の流出だ。高成長・高インフレにより高金利でありながら購買力平価は対ドルで下落していた。にもかかわらず対ドルで固定相場となっていたことから、通貨が割高となり対外収支が悪化。ついには投機による空売りに投資資金の流出があいまって対ドル固定相場制が崩壊したというのが概要だ。今では固定相場制、対ドルペッグ制はほとんどみられない。開放経済においては、自国の経済政策、景気物価動向に応じた適切な金融政策の自由度が維持される必要があり、その状況で為替相場を固定することには無理がある。理論の正しさを大がかりな危機で実証し、金融為替市場全体が教訓として共有することとなった。
日本企業の為替リスク管理へのインパクト
アジア通貨危機の日本企業に対するインパクトは甚大だった。この頃にはアジア各国に日本企業・製造業が多く進出していた。各国の国内市場向け拠点というよりも、日米貿易摩擦を回避するあらたな対米輸出拠点、あるいはコスト削減を企図した日本国内への逆輸入のための生産拠点として強化していた。タイでは自動車関連が多く、関連部品メーカーが多く拠点を配置。半導体や電機関連、衣料品ほか家庭用品、など多岐にわたった。中国での生産拠点も拡大するなか、生産品目で中国と最も競合しているのがタイだった。マレーシアは天然ゴムやヤシ油、石油天然ガスの産出国であるが、産業としては電機電子・半導体関連に強味があった。英語が広く通用するのが利点だが、人口が2,000万人とタイの8,000万人にかなり開きがあった。賃金はマレーシアの方がタイより高く、インドネシアはタイよりもさらに賃金が安い。インドネシアは2億人の人口を擁し労働力は豊富。衣料品などコストの安い商品の生産拠点とみられていた。
大手メーカーでは、それらアジア各国の生産拠点を統括するアジア本部をシンガポールに置くケースが多かった。そこで一次的な事業および財務の管理が行われていた。アジア通貨危機前にはアジア各国通貨は対ドルで固定されていたため、固有の為替リスクは気にかけずに済んでいた。為替リスクはもっぱらドル円相場そのものとなっていたためだ。なおかつドル高円安につれてアジア通貨高円安も進行していたため、アジア通貨を保有していることにリスクは感じられていなかった。それが状況一変。アジア通貨は暴落し、各国別に変動相場制となった。あらたに発生した為替リスクをどう管理するのか。少なくとも各国の生産拠点では生産に注力しているため財務管理の人員は手薄。自ずとシンガポールが引き受けることが多かった。それでも手に負えなくなれば日本の本社が引き取ることとなった。いずれにしても管理すべき為替リスクが一気に増加した。わずか2年も経たない99年初にユーロが誕生し、欧州の個別通貨の為替リスク管理が不要となったのと全く逆の流れだ。
管理通貨が増えたことで必要とする情報も増える。シンガポール拠点あるいは日本本社の為替リスク管理業務の負担は大きくなった。これにつれて邦銀のアジア拠点に求められる機能・情報が質量ともに高まった。すでに日本企業のアジア強化につれて邦銀も大勢を強化していたが、一段と質的な強化、情報収集・分析力を強化することとなった。本格的なアジア通貨分析がここから始まる。さらに新興国リスクについて、対外債務問題を起因とする中南米通貨危機とはまた異なるパターンの通貨危機が意識されることになる。企業にとってアジア通貨危機は激震だったが、そのショックによる体制を構築に忙しい最中、日本の金融危機が勃発した。
◇MRAフェロー 深谷幸司