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諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第3回 ~蠢く80年代~円相場の夜明け~
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蠢く80年代~円相場の夜明け

規制金利下の日本に「黒船」来襲

前回はニクソンショックによる固定相場から変動相場への幕開けの話をした。ただ固定相場制が崩壊したとはいえ、すぐさま為替相場が今のような自由な為替取引によって変動し始めたわけではない。時代は下り1980年代。日本の金融市場や外為市場が自由化され、金利が動き、資本が動き、為替が動く時代へ。日本経済は貿易摩擦とバブルの時代に入っていく。今回はその入口の頃の話。私が銀行に入り新米として仕事を始めた頃の話。新米行員とて何かが動き始めたことを薄々感じ、そして変化の渦に巻き込まれていった。

84年4月、私は当時の三菱銀行に入行し竹町支店に配属された。銀行の支店はおよそ駅前にあり、店名から場所の見当がつくものだが、どこにあるかわからないのも珍しい。台東区台東4丁目。御徒町駅から東へ、春日通りを隅田川方向へ、厩橋に向かって歩いた先にある。今ではつくばエクスプレスの新御徒町という駅がある清洲橋通りとの交差点。佐竹商店街というレトロな商店街が残っている。竹町はその地域の古い呼び名だ。支店はすでに廃止となり建物が残るのみ。細い路地が碁盤の目のように交互に一方通行で走り、家々の前には植木鉢が並ぶ典型的な下町。下谷神社や鳥越神社が近い。そんな場所でも容赦なくグローバルな波が押し寄せ、支店が、顧客が、対応に迫られた。

当時、大手金融機関には、都市銀行13行(外国為替銀行法にもとづく外為専門銀行である東京銀行を含む)、長信銀3行(興銀、長銀、日債銀)があった。それに政府系金融機関として日本輸出入銀行、日本開発銀行、が民間金融機関では手が回らない部分を機能補完していた。民間金融機関は、大蔵省と日銀のもとで規制され管理されながら、いわゆる護送船団方式で国内の効率的な資金配分、家計から企業への資金循環を担っていた。業態間には垣根があり、長期貸出はもっぱら長信銀が行うとされた。支店が少なく預金による資金調達が難しい長信銀には、短期資金の調達は割引金融債で、長期資金の調達は利付金融債で行うことが認められていた。資金調達・運用の期間ミスマッチの緩和ができていた。東京銀行も外為専門銀行として支店が少なく資金調達が難しかったため、割引金融債と3年の利付金融債での資金調達が認められていた。貸出基準金利には短期プライムレート、長期プライムレート、があり、短期プライムレートは日銀の政策金利である公定歩合をもとに決められ、長期プライムレートは利付金融債の利率をもとに決められていた。いずれも変動はするものの、日々変動することはなくせいぜい月次ないし数か月ごとで、今の感覚からすれば規制金利・固定金利という色合いが強かった。

ただ日本全体が貿易黒字・経常黒字の累積により貯蓄余剰となるにつれ、企業部門への成長資金の供給を、日銀を中心とする規制金利体系でコントロールする必要性が低下していた。と同時に貸し手優位は解消し、借り手優位、貸出競争へと向かっていった。一方、80年前後から、高まる資金運用ニーズ、金融商品へのニーズへの対応、規制緩和の動きも徐々に始まっていた。銀行には大口かつ6か月以内で総発行額に制限をかけつつCD(譲渡性預金)の導入が認められ、証券会社は中期国債ファンドが認められた。まだ就職活動中の私でさえ、金融規制は緩和され、自由化され、やがて業態間の垣根はなくなり、業態として都銀が残っていくのではないか、との予感があった。

そうした自由化・規制緩和の動きを加速させたのが米国による外圧だ。米国はレーガン政権、日本は中曽根政権で、ロン・ヤスとファーストネームで呼び合う親しさを表に出したが、裏では日本は米国に厳しく責め立てられていた。83年秋、米国は巨額の対日貿易赤字に業を煮やし、日米首脳会談で、安すぎる円と高すぎるドル、の問題を協議した。日米間の貿易摩擦が為替に大きな影響を及ぼしていた時代だ。80年代前半は日米自動車摩擦が火を噴き、日本の自動車業界は輸出自主規制を余儀なくされていた。米国企業は対日競争力低下の主因をドル高円安とみて政権に圧力をかけた。日本は内需拡大主導の景気拡大を目指し、その結果として経常黒字を縮小して米国からの圧力を回避しようとしていた。しかしレーガン政権は日本に対し「円の国際化」と「金融・資本市場の自由化」を強く迫った。米国側には、日本の金融市場が開放されていないこと、資本取引が規制されていることが、海外投資家の円資産購入を妨げ、円安ドル高の要因となっている、との見方があった。オフショアでの円取引(古い呼び名ではユーロ円市場)を自由化・拡大すれば、円への投資が活発化して円高になるのではないか、との見方だ。また金融市場が改革開放されれば金融サービスに長けた米国金融機関が日本市場で収益を稼げるとの思惑もあった。こうした米国の要求により設けられたのが「日米円ドル委員会」だ。

金利自由化、円の国際化、実需原則・円転規制の撤廃~円相場の原点

84年4月、下町の竹町支店に配属され、最初の係は外国為替課だった。通常は1階の営業課つまり預金関係でイロハからOJTを行うはずだが、この年、三菱銀行の新入行員はすべて早々に外為研修を受けることになっていた。初めての試みだ。新卒をいきなり外為課に投入とは大胆な話だ。竹町支店を中心とするエリア、秋葉原、御徒町、上野、から、浅草、蔵前、浅草橋の界隈は、宝飾品や家具、雑貨などを取り扱う中小問屋が多く輸入取り扱いが多く、また輸入取引もあったので外国為替課が存在した。外国為替課がない支店に配属となった同期は本店の外為事務センターで研修した。竹町支店ではL/Cオープン(輸入業者に対する信用状の発行)申請書類チェック、L/C買取(輸出業者からの貿易為替手形買取)の船積み書類、為替手形等のドキュメントチェック、小口の為替予約、外貨両替、外貨送金小切手の取り立て・決済銀行への着金照会・回付、などを行った。外為実務ハンドブックを片手に貿易と外為決済業務について勉強しつつ実務をこなした。

三菱銀行が新入行員全員に外為研修実施を決めた背景には「円の国際化」の流れがあったのだろう。まさに84年4月、先物為替取引の実需原則が撤廃された。為替取引のおける投機性を排除するため、先物取引は貿易など実体取引に伴うもの以外は認められていなかったが、それが自由化されたのだ。さらに84年6月には円転規制も撤廃された。銀行が調達した外貨を自由に円に転換することができるようになった。海外の金融機関に預金されている「ユーロ円(オフショア円)」も国内に取り入れることも自由となった。日本の機関投資家による対外投資が急速に増加していった。80年代前半は米レーガン政権が高金利政策をとっていた時期。円への投資拡大で円安を抑制しようという意図とは裏腹に、垣根の撤廃は円から外貨へ、とくにドル資産への投資を増加させ円安ドル高をもたらした。

これが為替市場における円相場の成立の原点だったのではないか。投機的な円の売買が可能となった。資本移動も自由になった。国内金融市場と海外市場がつながった。円には国内もオフショア(ユーロ円)もなくなった。日本の金融市場に大きな穴が開いた。というよりも、日本の金融市場という垣根がなくなった。オフショア円が自由金利だったことで、国内金融市場の金利体系も自由化せざるを得なくなった。すでに譲渡性預金(CD)の創設で金利自由化は始まりつつあったが、これで日銀の公定歩合を中心とする規制金利体系は一気に破壊されることとなる。CDは小口化・期間拡大され、市場金利連動型預金(MMC)も登場する。外国の金融機関に次々に国内市場への参入が認められた。85年から預金金利に市場原理が反映する新たな時代となり、「円」に市場が成立した。円相場が、為替相場が自由に変動するには、単なる固定相場制の撤廃から一歩進んで、資本市場の自由化が不可欠だということがここでも確認できる。

竹町支店に配属となり丸1年、外為課の後、1階の営業課でも半年業務を経験した後の85年4月、貸付課に係り替えとなった。下町で中小企業を担当すれば銀行員としての基本が鍛えられる。担当は、帽子や糸、衣料品、機械、ガラス製品などの中小問屋、製造卸、製缶業や、傘を家内制手工業で作る先もあった。そして貸付課の末席として指名付けられいたのが、住宅ローンの固定金利から変動金利への切り替えだった。住宅ローン金利は借入時の長期プライムレートに応じて固定されている。しかし85年に規制金利が崩れ、金利が自由化し、預金は市場連動に。そもそも都市銀行は預金で資金調達していたわけで長期固定金利のローンは利ザヤが稼げる反面で金利・期間のミスマッチのリスクがあった。当時入行2年目の自分にはわからなかったが、今思えば、規制金利の崩壊、金利自由化・市場化にあたり、そのリスクを解消してALM管理しようという一大転換点だったのだろう。

そして貸付課になり半年も経たない85年9月22日、歴史的なプラザ合意を迎えることとなった。急激なドル安円高で取引先は大混乱に陥った。ドル円相場は250円近辺から200円近辺へ。さらに年度末には170円近辺へ。輸入企業には円高は良いようなものだが、為替予約も自由化されたところで先物予約を厚めにしていれば含み損をかかえることになった。円高メリットを享受できるのが先になり、むしろ卸先からの円高値下げ要求に苦慮する。輸出企業が当然に採算悪化で危機を迎えた。困ったのは、いったいどこまでドル安円高を進めるのか目標水準は明らかにされず、どこまでドル安円高が進むか検討がつかず、底なしのドル安円高の恐怖感があった。さらにプラザ合意の影響は円の市場金利にも及んだ。日銀は11月になってもなお合意に基づいて円高誘導に注力し、断続的なドル売り円買い介入と、短期金利の高め誘導を行っていた。為替相場を円高方向にコントロールするために円金利を引き上げる、などということは想像もできないことだった。それまで貸出金利は短期プライムレートに基づいて行っていたが、本部からは市場金利連動型の金利で貸し出しを行うよう指示が飛んだ。CD(譲渡性預金)金利+スプレッド、という金利設定にせよ、と。取引先には従ってもらうしかなかった。結局、銀行が市場金利変動に巻き込まれ、銀行がそれに対応する過程で預貸双方の金利が市場金利に連動することとなり、それまで規制金利のもとで経営してきた企業も市場に巻き込まれていった。

為替と金利、双方が、必然ではあるが同時に動き始め、市場や相場の理解と対応を抜きにしては、銀行も企業も経営が成り立たないことがわかった。市場や価格変動リスク管理の始まりといっても良いだろう。そして経済大国化、米国との貿易摩擦、市場開放要求、人民元の切り上げ、ないし変動相場制への移行要求、それと同時に必要となる資本移動の自由化、などは今、中国が直面し対応に苦慮・躊躇している状況そのものだ。ただ米国に敗戦した日本と異なり、中国が米国の要求を容易に呑むとは思えない。同じ方向だが異なる経路を辿りそうだ。

◇MRAフェロー 深谷幸司

諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第4回 ~プリミティブな日本の金融市場とバブル経済~