諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第9回 ~1995年~96年 市場分析の定着、相次ぐ不正取引事件も追い風~
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1995年~96年 市場分析の定着、相次ぐ不正取引事件も追い風
為替市場分析の最前線、問われる存在意義
1995年当時のITインフラは今とは比較にならないほど貧弱だった。やや遡れば、1990年を挟んで所属していた資金証券部債券ディーリング部門では、PC端末画面は大きな箱のブラウン管モニターを使っており、ソフトウェアも表計算ソフトは「Lotus123」、ワープロソフトは「一太郎」、を使っており、1990年代に入ってようやく東芝Dynabookなどラップトップが普及し始めた。それも今よりかなりの重量があった。当時のロイター、ブルームバーグの端末画面は奥行きのあるブラウン管タイプ、表示は単色。多量の熱を発散していた。テレレートや時事通信といった情報ベンダーの端末からは、巻物のようにニュースがプリントアウトされて床に伸びていた。そのなかから必要なニュース・情報を定規で切ってストックするといった原始的な有様。またその後異動した本店営業部では稟議書が手書きからワープロ作成に移行しつつあったが、使っていたのはワープロ専用機、東芝Rupoなどであり、PCとのデータ互換性のない機器を用いていた。
その状況は1995年当時の資金為替部でも大差がなかった。市場分析チームの作成するレポートはA4用紙でRupoにて作成。必要なグラフはPCで作成してプリントアウト。グラフのサイズを整えて、裏側にポストイット糊のスプレーを噴射し、レポート本紙に張り付ける。それをコピーしたものが完成版となった。基本的にそのメモは部内回覧が中心で、一部顧客向けに配布するだけだった。一方、市況分析やテクニカル分析のレポートは毎日作成。B4横の定型用紙に、市況メモ、ニュース・予定、グラフ、チャートを切り貼りしていた。こちらは広く配布していた。配布方法は、今のようにEメールがないため、ファックスにて一斉送信するスタイルだ。今のように、WordにExcelのグラフを貼り付け、Eメールで送信する、というのは天国のようだ。
さて1995年も半ばを過ぎ、東京銀行との合併準備が本格化すると、三菱銀行の資金為替部市場分析チームには存亡の危機が訪れた。東京銀行の為替資金部に市場分析チームがなかったためだ。銀行全体のバランスはともかく、為替市場部門が外為専門銀行である東京銀行主導となるのは当然。三菱銀行としては国際業務を強化するために合併したわけで、そこは東京銀行のアドバンテージを活かさなければ意味がない。合併にあたり、部署・担当グループごとに相手銀行側のチームと交渉をしていた。市場分析チームは相手がいなかった結果、先方の為替資金部長にその必要性を説明することなった。市場分析チームを残すかどうかは、部全体が双方の銀行から何人ずつで構成されるのかにも影響する。原点に立ち返って市場分析チームの存在意義・価値を説明する必要があった。
いかにポジション運営、ディーリング収益計上に役立っているか、顧客からの為替取引持ち込み、為替営業に役立っているか、を説明した。ただ東京銀行に市場分析チームがなかったのにも理由があった。それは個々人が為替のプロであり、ディーラーは自分の力量で相場が張れたし、営業は相場の話がしっかりできたためだろう。東京銀行には自由闊達な風土があり、また個々人に力量があったことから、市場分析チームは必要なかったのかもしれない。あるいは、外為専門銀行として、黙っていても為替取引が持ち込まれたことから、顧客向け情報サービスがさほど必要なかったともいえる。ただ外為専門銀行や長信銀といった専門銀行は規制緩和で消失がみえており、都銀を中心とした競争激化への備え、顧客サービスの向上は必要に思われた。様々な議論の末、結果的に、市場分析チームは合併後の新銀行における為替資金部での存続が決まった。その後は日本の銀行における市場分析チームの草分けとして、資金証券部、為替資金部、双方で市場分析は発展する。
リスク管理・不正取引防止体制が問われる事件が相次ぐ
一方、この頃、市場リスク管理が問われる事件が相次いだことも印象深い。日本の金融機関においても、さらにはグローバルな金融機関においても、そして一般企業においても、リスク管理手法やシステム構築は途上にあり、あるいは精緻さを欠いていた。そうしたなかでマクロ環境の激変やリスクイベントが不正取引を炙り出していった。
まず1995年2月、創業200年近いイギリスの老舗銀行であるベアリングス銀行が、不正取引による巨額損失によって破綻した。1月に阪神淡路大震災が発生。これにより日本株が大きく下落した。当時同銀行のシンガポール支店で勤務していたニック・リーソン氏は、架空口座を用いて日経平均と日本国債のデリバティブ取引で巨額のポジションをとっていた。そもそも損失隠しとその穴埋めのため、内規違反の自己売買に手を出し、かえって損失が膨らみ、それを取り返そうとさらに巨額のポジションを密かに構築。それがついにベアリングス銀行の自己資本を上回る1,400億円ほどの損失となり、イングランド銀行の再建検討も叶わず破綻のやむなきに至った。
95年7月には大和銀行NY支店で不正取引が発覚した。NY支店で米国債ディーラーとして現地採用されていた井口氏が、巨額の米国債取引を行い、当初の損失を隠そうとした結果、さらに損失の拡大を招き、雪だるま式にポジションが膨らんで巨額の損失を生じた。ついに隠し切れなくなり、同氏は95年7月に銀行幹部に自ら告白した。取引を管理するミドルオフィスやバックオフィスの管理体制が杜撰だった結果、こうした巨額の不正取引を管理することができなかったために生じた事件だった。この事件により、大和銀行は米国から撤退を余儀なくされた。
96年6月には、住友商事の非鉄金属部長が約10年にわたり会社の許可を得ずに銅市場で巨額の簿外取引を行っていたことが発覚。管理体制が問われることとなった。同部長は世界の銅市場の5%を動かす男として、ミスター5%、と呼ばれ有名だった。それが社内規定違反の巨額簿外取引により発表当初で1,800億円の損失を生じたと報じられた。ポジション整理の過程で損失はさらに膨らんで、結果的に同社は97年3月期決算で2,600億円の損失処理をせざるをえなくなった。
投機取引・ディーリング収益追求から顧客取引重視へ
一連の事件は、社内のリスク管理体制、フロントオフィスとミドルオフィス、バックオフィスの厳密な分離、取引監視体制の厳密化がいかに大切かを認識させた。社内ルールや損失限度額の運用をさらに徹底する契機となった。また、いずれの取引も、最終的に反対売買が困難なほど、市場の規模、取引量に対して過大なポジションとなっており、そうした側面でも教訓となった。
こうした事件や管理体制強化の流れは、手張りによるディーリング収益よりも顧客取引によるマージン収益を追求しよう、という方針につながっていく。投機ポジション、ディーリングによる不安定な収益ではなく、取引ボリュームを増強することによるマージン収益、手数料やオファー・ビッドの乖離による収益を強化しようという動きだ。
旧東京銀行の外国為替部門は専門家集団であり、ディーラーとしてプロ意識の高いメンバーが多かった。それゆえ手張りによる儲けを良しとしていた。一方、客観的にみれば、外為専門銀行として顧客から持ち込まれる取引による収益も大きかった。そうしたなか、いずれの銀行も国際業務を収益源として強化する動きとなり競争は激化していった。その結果、三菱東京銀行も一段と顧客取引を強化しようという流れになったことが、市場分析業務への追い風となった。顧客への相場情報・分析・アドバイスを的確に行い、いかに顧客からの信頼を得て、取引を優先的に持ち込んでもらうか。今では当たり前ではあるが、当時、ようやくそうした考え方が定着していった。
◇MRAフェロー 深谷幸司