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諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第5回 ~市場分析の黎明期-金融工学のはしり~
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市場分析の黎明期-金融工学のはしり

債券取引が高度化

1990年にかけて、日本の債券市場では取引の高度化、流動性の拡大が図られた。そのため新たに導入されたのが、ひとつは債券店頭オプション取引であり、もうひとつは債券貸借取引だった。オプション取引は1989年4月に、債券貸借取引は同5月に解禁された。

海外とくに米国債市場では、すでに債券オプション取引や債券レポ市場は発達していた。取引手法の拡大は、円債市場への外資系金融機関に参入認可により、取引自由化あるいは米国債並みの市場を求める動きが強まっていたものと思われる。すでに「野村軍団」が債券現物市場の流動性が乏しいことをいいことに、「買い本尊」として債券を買い上げるなど投機的な動きを強めていた。その結果先物取引からの理論値から大きく乖離して現物債が割高となり、先物買い・現物売りの裁定取引にメリットが生じていた。裁定取引に長けている外資系金融機関は金利変動のリスクをとることなく大きな利益を上げるチャンスがあった。すでに1987年5月に空売りが解禁されていたが、しかし受け渡し日(4営業日目)までに買い戻す必要があり、なお裁定取引が機能しにくかった。現物債の流動性が低いことで、受け渡し期日までに現物を調達しようとすれば「玉(ぎょく)=当該現物債」の枯渇により「締め上げられる=価格がつり上げられるリスクがあった。

そこで受け渡し日に現先取引で調達した債券や貸借取引で借り入れた債券を充てることができることとしたのが1989年5月だ。その頃、日本経済はバブルの真っただ中へ。日銀はその89年5月に9年ぶりの公定歩合引き上げ(利上げ)を実施し、バブル潰しを本格化。利上げを数次にわたり繰り返し、長期金利は急騰=債券相場は急落することになる。空売りによるヘッジ取引の拡充は必須だったかもしれない。本格的な利上げ開始で債券は売り一色になっていく。89年末が日経平均4万円目前の歴史的最高値であり、その後今に至るまで未だに抜けていない。

現物債のボード(インターバンク取引)を担当していた自分は、その債券貸借取引創設準備の担当を命じられた。売買を離れ、ひたすら市場創設の準備に追われた。すでに存在していた現先取引のシステムや帳票を応用すれば良いと考えたものの、ひとりでこなすのは大変な作業だ。証券管理部=バックオフィスとのネゴシエーション。円滑に事務処理をしてもらわないことには始まらない。システム部と打ち合わせて要件定義をしてシステムを修正する必要があった。そして銀行の勘定科目を新たに作らなければならない。商品有価証券の勘定のなかに、借入有価証券・貸付有価証券を加える必要がある。取引の概要やどのような勘定処理となるのかも含め、企画部主計グループのベテラン課長に説明して動いてもらう。しかも三菱銀行は全銀協の会長行にあたっており、大蔵省への説明・交渉にも上司に帯同してもらった。さらに地銀協会で勘定処理やシステム対応なども説明した。入行5~6年目、弱冠27~28歳のときだった。三菱銀行もずいぶんと思い切ったことをさせるものだが、当時は銀行全体で「調査役」という30代の課長代理職が行内で部署横断的に話をして物事を決めていた。さらに市場部門は若手に任せる風潮が強かった。

脆弱なインフラと金融工学のはしり

債券貸借市場の準備に先駆けて、傍らでオプション取引の準備を命じられていたのが大学院・数学科卒で理系の同期、亀澤・現MUFG社長だった。1980年代半ば、三菱銀行では金融自由化・市場化をみて理系の採用を増やし、システムあるいは市場部門に投入していた。金融工学の走りの時期だ。オプション取引は今や広く知られているが、当時はどういう取引なのか、価格(プレミアム)はどのように決まるのか、当初、自分には検討もつかなかった。熱力学の公式、ブラック・ショールズ公式、が登場した時点で、理系の面々にお任せするしかない、と悟った。

ただ理系の面々も脆弱なインフラのなかで苦労が多かったと思う。IT環境は極めて貧弱だった。1987年当時、インターバンクディーラーのポジション管理が、紙(ポジション管理シート)と鉛筆と消しゴム、だった。PCはモニターの奥行が分厚い。ソフトウェアは今では聞かない、Lotus1-2-3、だった。これを駆使して、先物価格対比で現物債が割高か割安かを判定し、銘柄ごとのヘッジ比率を踏まえて、現物と先物の売買ないし裁定取引を行っていた。最先端のモバイルPCは東芝のDynabookだったが分厚い弁当箱のような厚みがあり、画面は小さかった。情報端末も、ブルームバーグやロイターの端末は同様に画面が小さく、奥行がある、極めてかさばる、今みればかなり古風なものだった。

それでも当時の三菱銀行のディーリングルームは最先端だった。今の丸の内にある三菱UFJ銀行本店が当時の三菱銀行本店だ。1980年代は周囲からひとつ頭抜けた24階建てのビルで威圧感があった。23階の東側社員食堂からは東京湾や筑波山が望め、西側の喫茶からは皇居や新宿が一望できた。今では絵本の「ちいさいおうち」のように、周囲が開発され高層ビルに囲まれて埋もれ、ひときわ小さく見える。そのビルのなかほど、12階のフロアを片側・西側をぶち抜いて見渡す限り市場部門が集約されていた。北側に資金為替部が、中ほどに資金部が座して銀行全体の金繰りを、南側に債券ディーリング部門と債券ポートフォリオ運用部隊があった。東洋一のディーリングルームと称され、確かに壮観だったが、情報ITインフラは今とは比べものにならない。

市場分析の黎明期

三菱銀行の債券ディーリング部門が、おそらく日本の金融機関で初めて市場分析チームを創設したのではないか。自分が配属された1987年当時、すでに市場分析担当者が存在し、1990年にはチームとなって機能していた。そもそも金融自由化から間もない頃で、相場やディーリングが銀行にとって目新しい時代だった。相場といえば、当時ディーリングルームの逆サイドで行われていた外国為替だった。債券市場に比べれば荒っぽい市場で、よく罵声が聞こえてきた。何をもとに売買しているのか、債券サイドからはみえなかったが、当時は分析とは程遠い世界だったと思われる。

1987年当時、銀行はまだ土曜日は営業日だった。円債市場も昼まで開いている。そして毎週土曜日、場が引けた後の午後に、相場会議が開かれていた。議論する内容は今の相場会議と変わらないだろう。チャート分析(テクニカル分析)、相場材料(ファンダメンタルズ、金融政策)、投資家動向だ。ただ大きく異なるのはチャートが手書きだったこと。「ろうそく足」や「ポイント&フィギュア」など、相場の値動きに合わせて方眼紙に手書きで作成する。紙が足りなくなる、相場の値動きがはみ出ればつぎ足す。そうして大きな方眼紙をつなぎ合わさったものが出来上がっていく。それを何種類も、テーブルいっぱいに広げて議論していた。当時はチャート分析の本など数は少なく、古来の「酒田五法」など、あるいは過去の値動きパターンから、先々の相場展開を読んでいた。

やがて市場分析チームができると諸々の分析を引き受けてレポートを作成するようになった。ディーラーは分析する時間がない。セールスも同様。そうしたなか、分析チームが相場全体の流れや、割安・割高銘柄、売買手法などに係る情報を提供するようになった。インフラは既述のとおり脆弱。レポートもグラフや文章を切り貼りして作成。インターネットやメールなどはなく、部内には紙で回覧・配布、顧客にはファックス、などで伝達しており効率は今に比べて極めて悪かった。

自分は債券貸借取引の立ち上げの後、そのまま売買を離れて企画班でポジション・収益管理、リスク管理、決算・当局対応などを行っていたが、最後に、市場分析チームに転じて、そこで初めてアナリスト業務に本格的に携わった。市場分析は、当初は手張り、つまり自行のディーリングで収益を上げるのが目的だったが、次第に顧客取引を拡大する目的も加わっていった。当時は債券ディーリング部門あるいは為替ディーリング部門に市場分析チームがある銀行はなかった。そして三菱銀行でも、債券ディーリングから為替ディーリングへ課長クラスが移動したことで、為替ディーリング部門にも市場分析チームが創設された。IT・情報武装が本格化するのはまだ先。米国でITバブルが始まった1990年代後半からで2000年に近くなってからになる。WordやExcelなどはなく、それまでは引き続きワープロで作成した文章やLotusで作成したグラフを、切り貼りしてレポートを作成する日々が続いた。分析も、レポートも、まだまだ未熟な洗練されていない時代だ。

◇MRAフェロー 深谷幸司

諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第6回 ~貿易収支と通貨政策-通貨マフィアの時代~