諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第6回 ~貿易収支と通貨政策-通貨マフィアの時代~
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貿易収支と通貨政策-通貨マフィアの時代
荒れるディーリングルームの逆サイド~資金為替部
債券ディーリング部門に携わったのは、87年5月からおよそ4年半。バブルのピーク=日経平均が史上最高値をつけた89年末を挟んで前後それぞれ2年余り。当初は長期国債利回りが公定歩合にニアミスするなか、低金利・株価高騰でバブルに浮かれ、後半はバブル潰しで連続利上げと長期金利急騰・債券価格急落。株式市場と同様、債券市場は90年代初頭に阿鼻叫喚に陥った。そうしたなか、ディーリングルームの逆サイド、隣の資金為替部も、その先にある顧客・企業ともども為替相場の荒波のなかにあった。レーガノミックス、急速なドル高、プラザ合意によるドル急落、その後のドル安定化模索のなかで振り回されていた。当時は傍から眺めていただけだが、頻繁に怒号が飛び交っていたことは脳裏に焼き付いている。ただ相場の水準感が失われ、落ち着きどころがみえなくなった状況では、市場参加者は疑心暗鬼になり神経質となるのは当然。債券利回りはまだ政策金利の延長線上にあるから、ある程度の水準感がある。しかし為替相場は単なる2通貨の交換レートであり、暗中模索となるのは宿命だ。
85年のプラザ合意によるドル高調整・ドル切り下げのための協調介入はうまく行き過ぎたのかもしれない。今ではG7開催も恒例行事となり大相場をもたらすことはない。しかし当時は隠密裏にG7会合が実施され、協調ドル売り介入が実施された。変動相場制になって以降、各国協調によるそうした試みはなかったのだから、さぞかしショックだっただろう。過剰なドル買い・ドル高騰で反落には十分な条件が整っており効果は絶大だった。市場は、各国の通貨当局者、日本でいえば財務官を中心とする「通貨マフィア」の恐ろしさ、力を思い知らされた。しかし、その後は薬が効きすぎてドル安の流れが止まらず。86年から87年にかけては逆に急速なドル安にブレーキをかけるべくドル買い介入が実施されるほどだった。そこで各国は利下げでドル高自国通貨安の環境を整えようとした。為替介入ではなく、金利操作、金融政策の協調で、ドル下支えを図ろうとした。これが破綻して生じたのがブラックマンデー、87年の米国株暴落であり、また米国・ドルに配慮して利上げを踏みとどまった日本経済にバブルをもたらした。
こうして早くも為替市場に介入の効果をもたらすためにはずマクロ政策の裏付けが必要と認識された。また為替相場を重視してマクロ政策を歪めると経済に混乱をもたらすことも経験した。為替介入は協調介入であれば効く、さらにマクロ政策の裏付けがあれば一段と効果がある、通貨マフィアが国際金融政策を裏で合意し、為替相場をコントロールしているのではないか、そのような意識が強まった時期だ。市場関係者が通貨当局とコンタクトを緊密にし、何とか情報を得ようとしていた。今では国際的な政策協調は求めるべくもないが、グローバルに景気が連動するようになったことで、結果的に連動制・協調性が強まってはいる。
日米貿易摩擦とバブル経済、結果としての円安
80年代前半から後半にかけて、日本の金融市場は自由化・対外開放のただ中にあり、徐々に内外資本移動が為替需給にも影響を及ぼし始めていた。しかし、なお為替市場では貿易収支など国際収支への注目は高いままだった。今でこそ先進国間、日米欧の間での貿易摩擦問題は主要議題には上がらないが、当時、日米間では貿易摩擦が苛烈を極めつつあった。日米両政府は顔を突き合わせる度に、この話題を避けて通れない状況となっていた。とりわけ、対日貿易赤字が拡大する一方の米国産業界の突き上げは厳しく、日本市場の開放・外国企業の参入自由化や対米輸出自主規制が日本の産業界にとっては懸念材料、あるいは克服すべき課題・環境だった。日米の貿易収支は為替市場で今ではほとんど注目されないが、当時は一大イベントであった。
日米貿易摩擦はまた、日本の80年代後半のバブル発生の遠因だったのではないか。日米貿易摩擦の主戦場は、繊維から自動車へ、さらにこの時期は半導体・パソコンへと移行。結果が問われ、日本は米国からの輸入目標設定を強いられた。それまでの対米輸出自主規制ではなく、日本の市場を開放し米国企業の日本市場への進出が促された。これに対して日本政府は外需依存から内需主導への経済構造の変革、それによる対外収支黒字の縮小を目指した。財政拡大を中心内需刺激策がとられるなか、ドル安円高抑止のため金融緩和を実施。さらに87年10月にブラックマンデー、米国株の大暴落で日銀は利上げができなくなった。結果的な過剰な内需拡大策、財政拡大・金融緩和、時期を逸した政策変更がバブルをもたらした。国際協調の落とし穴、国内事情だけで金融政策を決定できないことによる弊害が顕在化した。
バブル期には円高圧力が解消した。強まる貿易摩擦や円高のもと、企業は生産拠点の海外シフト、海外生産拠点を通じた間接貿易により、米国からの圧力回避を図った。内需過熱も貿易黒字縮小の一助に。そして、国内低金利、株価上昇、強まるリスク選好のもと、国内投資家・企業は海外投資に走った。その結果、為替相場は円安基調となった。企業が円高リスクを回避することで、逆に実際の相場は円高とならず、この時期はむしろ円安となった。
80年代後半から90年代初頭は、通貨マフィアが協調介入を通じて為替相場の統制を試み、国際的な政策協調の必要性が明確となった。またその功罪、協調の破綻による市場の混乱、対外配慮による国内経済の制御不能、も明らかになった。日米貿易摩擦に苦慮していたなか、バブル経済のもとで、内需主導と対外投資の活発化による円安という「あだ花」が咲いた時期でもあった。
◇MRAフェロー 深谷幸司