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諸行無常の為替市場・不易流行の相場分析 第7回 ~不穏な90年代前半、円高と格闘する日本企業~
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不穏な90年代前半、円高と格闘する日本企業

米国経済苦境でドル低迷、日本のバブル崩壊で円高

今では先進国経済・景気はほぼシンクロしているが、80年代から90年代にかけてはまだ各国間に強弱や景気の波に相違があった。80年代後半に日本がバブル経済で我が世の春を迎えていた頃、対象的に米国経済は問題をかかえた。レーガン政権のもとでとられた高金利政策によるドル高は85年のプラザ合意により修正されたが、その間に米国製造業の輸出競争力が失われた。輸出が減少、輸入が増加して貿易赤字・経常赤字が拡大。また防衛力増強による財政支出・赤字が拡大。財政赤字・経常赤字のいわゆる「双子の赤字」が米国経済の構造問題として意識されはじめた。累積的な経常赤字の結果、1986年に米国は対外債権国から対外債務国に転落したことで、ドルへの信認にも翳りが生じ、90年代前半はドルが低迷を続けた。

一方、日銀は急激な金融引き締めでバブル抑制を図り、株価は89年末に大天井をつけてから急落。さらに不動産バブルも崩壊し、91年夏頃から下落しはじめた。内需主導・バブル景気は逆回転。景気後退に陥った。米国経済が立て直しの時期となるなか日米貿易摩擦も激しさを増し経済運営は難しくなった。プラザ合意による急速なドル安円高を受けて拡大し始めた日本企業の海外生産はさらに加速。貿易摩擦を受けて、米国での現地生産、アジア生産拠点などから米国への「迂回輸出」が活発化した。内需が堅調だったバブル期は貿易黒字が縮小し円高圧力は緩和していたが、内需不振・外需頼みとなると再び円高圧力が強まった。さらにバブル崩壊で日本の投資家の体力が毀損し海外資産売却・国内回帰が強まり、資本収支面から円高圧力となった。

この頃は、国内経済が不振で外需依存となると、貿易黒字が拡大し円高に振れ、企業収益が圧迫される、流れとなっていた。海外経済が堅調であれば投資資金が国内から海外に流出するため円高が抑制された。あるいは投機の円売りも加わり、貿易収支の黒字を上回る資本流出で円安となり、あるいは円相場が安定する可能性もあった。ただひとたび資本が逆流すると、巨額の貿易黒字に投機筋の円買い戻し、さらに本邦投資家の国内回帰となると急激な円高となっていた。こうした相場構造は90年代から2000年代の初頭にかけて続くことになる。

大きく進んだドル安円高、苦心する日本企業

この時期、米国の経済政策スタンス、通貨政策が混乱を大きくした。米国経済・米国企業の苦境を解消するため、ドル安政策を用いようとした。すでに米国経済は「双子の赤字」が問題視されておりドルの信認は盤石ではなかった。クリントン政権は日米貿易摩擦・通商交渉に為替政策をカードとしてちらつかせ、通貨政策にドル安バイアスをかけた。市場はそうした「危険な火遊び」を見逃さず、ドル売りが加速してドル円相場は急落した。中南米諸国は80年にかけての米国の高金利政策で利払いが増加し対外債務は深刻な状況となっていた。米金融機関への懸念とともに中南米経済・通貨への懸念が広がった。そうしたなか、95年4月に、ドル円相場は一時80円を割りこむ大幅なドル安円高となった。ここを転機にドル安は反転していくのだが、それはまた次回の話としよう。このときに米国が学んだことは、通商問題に為替相場を持ち込んではならない、とくにドル安を志向してはならない、という点だろう。様々な意味で、強いドルが国益、であることを再確認したのではないか。90年代後半以降、米国がドル安を志向することはなくなった。

日本企業は、90年代前半にはバブル崩壊の後始末を強いられた。バブル期には総合商社は金融取引で荒稼ぎをした財務部門が現業部門よりも力を持つような雰囲気もあったが、本業重視に逆戻りした。また大手製造業は引き続き中長期的な円高対策・対米貿易摩擦対策を強化し、海外への生産移転や海外拠点の拡充を進めていた。なかにはアジア(主としてシンガポール)や欧州(金融市場としての優位性からロンドン、あるいは税制メリットのあるオランダ)に金融子会社を配備しはじめる企業も散見された。この頃から大企業はグローバルなキャッシュマネジメントを開始。金融機関がそれをサポートあるいはマネジメントシステムを売り込んだ。企業は資金・資本の効率的な再分配を行うようになったが、例えば、アジアで稼いで欧州へ(大手電機メーカー)、米国で稼いでアジアへ(大手自動車メーカー)などの動きが散見された。この頃から外で稼いだ資金を国内に還流させずに海外で再投資、海外で稼いでそのまま海外で再投資、という動きが強まった。これは円高リスクを究極的に軽減する方策でもある。為替ヘッジによる対策は、せいぜい1事業年度、ないしは1四半期から半年程度に限られる。また急激かつ大幅な円高では為替先物予約によるリスクヘッジでは焼け石に水となっていた。そのため事業そのものの為替エクスポージャーを減少させる動きが広がった。

債券ディーリングから営業部へ

自身はといえば、92年、ちょうど不動産バブルが崩壊したタイミングで債券ディーリング部門から営業本部に異動となった。金融自由化とバブルの頂点やバブル潰しの急激な金融引き締めを市場部門で4年半経験。その後に営業部に異動が叶った。当時の三菱銀行では、大企業取引担当者にはマーケットの知識が必要だと考えられており、市場部門から営業本部への異動が多かった。配属された本店営業第二部は、小説・テレビ「半沢直樹」が次長として配属された部署(作者の池井戸氏は三菱銀行出身だ)。実際には三菱系企業を主として所管していた。そこで三菱商事の為替部と国内関連子会社を担当することとなった。調査役は自分を含めて4人いたが、他の2人は国際金融部を担当しプロジェクトファイナンスなどを所管、もう1人が本体の資金部、財務部門のメインの担当だった。担当先が担当先だけに、究極にまで顧客が銀行と取引する意義、手数料に見合う付加価値を考えざるを得なかった。

当時はまだ企業のセキュリティも今とは違い、今では考えられないほど比較的自由にオフィスに出入り可能だった。当時三菱商事の為替部は1階にあり、よくオフィス内の担当者の横のゴミ箱に座り話をさせてもらった。輸出のドキュメントの持ち込み、あるいは輸入決済送金の持ち込みを依頼。プロジェクトファイナンスに関しては、入札保証(Bid Bond)や履行保証(Performance Bond)などが要求されることが多い。いわばLG(Letter of Guaranty 保証状)のようなものだが、その発行を持ち込んでもらえるように依頼もした。輸出に関してやっかいだったのは、しばしば信用状のコンファーム(LC発行銀行の支払い確約)を要求されたことだ。三菱商事がコンファームを要求するような発行銀行であるから、当然、銀行の信用度は低い。東欧や中南米の馴染みのない銀行が多かった。しかも当時は80年代前半にかけてのドル金利急騰・ドル高騰の際に生じた新興国の債務危機がなお留意を要する時期だった。コルレス関係になく、あるいは与信上の問題から銀行として応じられないケースが多かった。また取り立て不能の債権の管理も多々あった。中東向け、ロシア(旧ソ連)向けは難儀だった。91年にソ連が崩壊し、新生ロシアが外貨債務を引き継いだが、厳しい状態が続いていた。また新興国でのプロジェクト向けに発行したLGの回収はままならなかった。

一方、国内関連会社は様々な業種を担当していた。燃料部門の関連子会社では川上から川下まで、石油開発会社から国内輸送、ターミナル、原油販売、ガソリンスタンド運営会社など。担当していた石油開発会社は西アフリカ、アンゴラやガボンの沖で石油を採掘していた。当時はあまりに治安が悪く鉱区に行く機会はなかった。原油価格は記憶によれば20ドル台。しかも販売収入の9割を採掘権見合いで現地政府に渡さねばならず、採算はギリギリだった。原油の中東依存を少しでも緩和するためとはいえ厳しい条件だ。また別の担当会社は、南米ベネズエラのオリノコ川流域から産出されるタールをエマルジョン化(水と界面活性剤で液化)した「オリマルジョン」を扱おうとしていた。これもエネルギー調達の多様化の一環だった。国内輸送はタンカーを保有し陸送を担う会社だった。また国内のガソリン・軽油等の販売は、精製供給過剰のためいわゆる「業転玉」(業者間転売玉)が出回り始めた頃で、今とは隔世の感がある。食料品部門は系列の大手卸会社から小麦、砂糖、畜産、飼料用サイロ運営会社、など。担当して初めて小麦の政府売り渡し価格があることも知った。

機械部門や情報産業部門にも様々な会社があった。担当先には当時民間ビジネスとして始まったばかりの通信衛星(CS、Communication Satellite )の運用会社もあった。衛星は中南米のフランス領ギニアから欧州アリアン社のロケットで打ち上げていた。打ち上げはいつも現地からの映像を緊張して見守った。多額の打上げ保険をかけており、それを担保に、当時の日本輸出入銀行の輸入金融制度を用いて協調融資を組んだ。その際に幹事行として10数行をとりまとめるアレンジが非常に難しく幾度か徹夜を強いられた。金利条件は輸銀と交渉のうえ、それまでの長期プライムレートから、金利スワップを用いた初めての案件とした。金融規制緩和・自由化がやがて専門銀行の解体に向かう流れを予感させた。また輸銀や開銀といった政府系金融機関もやがて統廃合された。

支店の取引先から三菱商事を紹介して欲しいという話も多く持ち込まれ、その都度、対応した。印象に残るのは、当時、山口県の1衣料品販売会社だった某社。今ではグローバルに展開する超有名企業だが、同社は中国からの調達を拡大すべくいち早く動き始めていた。92年に鄧小平が「南巡講話」を行い、改革開放路線に舵を切ったことが契機となったとみられる。為替リスクヘッジ、円高対策というより、コスト軽減、調達のグローバル展開による利ザヤの拡大、という動き。冷戦の終結により、旧共産圏諸国が調達先として検討できるようになり、供給元が拡大。ビジネスのフロンティアが拡大したということだ。今にして思えば、ここがディスインフレの端緒だった。足元のウクライナ危機がそれを逆戻りさせかねない事象であることは明らかだ。

◇MRAフェロー 深谷幸司

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