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リスク管理最前線 第68回 〜「ロードス島攻防記」に見る聖ヨハネ騎士団の戦略とリスク管理〜
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「ロードス島攻防記」に見る聖ヨハネ騎士団の戦略とリスク管理

今回は閑話として、「ロードス島攻防記」に見る戦略とリスク管理についての私見です。「ロードス島攻防記」は「ローマ人の物語」の著者としても有名な塩野七生氏による、16世紀初頭にエーゲ海のロードス島を舞台に繰り広げられた、聖ヨハネ騎士団とオスマン・トルコ帝国の攻防の物語です。オスマン・トルコにとって、ロードス島を支配下に治めることは悲願でした。イスラムの通商船は地理的にロードス島付近の狭い海域を航行せざるを得ませんでした。しかし「救護活動団体」ではあるものの、「海賊」を生業としていた聖ヨハネ騎士団にしばしば船が襲われていたため、ロードス島は「キリストの蛇たちの巣」と呼ばれ、オスマン・トルコにとって喉元のトゲのような存在でした。15世紀終盤に大軍でロードス島を攻めたにもかかわらず失敗に終わっていましたが、オスマン・トルコは諦めておらず、再度の攻撃に向かいます。若きスレイマン一世率いる十万人以上の大軍であるオスマン・トルコ軍に対して、ロードス島を防衛する聖ヨハネ騎士団はわずか六百人足らず、傭兵一千五百人余りと島民で参戦可能な三千人を合わせても、数字的には圧倒的な劣勢です。しかし、ロードス島を巡るその戦いは、またしても聖ヨハネ騎士団の善戦により、5ヶ月にわたる壮絶な攻防戦となりました。聖ヨハネ騎士団の戦略に善戦の鍵があったと考えられます。

兵力の集中


開戦前の準備期間において、聖ヨハネ騎士団は領海権確保のためロードス島の周辺の島々にまで配置されていた兵力のロードスへの総引き揚げを行います。オスマン・トルコの大軍が攻めて来た際に周辺の拠点はいずれにせよ占拠されてしまうと考え、一兵とも無駄にできない聖ヨハネ騎士団は周辺の島々の領有を諦め、ロードスに兵力を集結させる決断をしました。理にかなった決断ではあるものの、実際に既得権を手放すのは容易なことではありません。当時、聖ヨハネ騎士団の中でも反対派がいました。現代の国家や企業においても、転換期に勇気ある撤退と戦略の変更を決断できずに発展の機会を逸して衰退してしまう例は数多くあるように思います。

城塞の改造


戦略上最も重要であったのは、城塞都市ロードスの城壁の構築でした。劣勢の聖ヨハネ騎士団にとって頼りになるものは城壁のみでした。最適な城壁の機能やデザインは兵器の技術の進展とともに変化し続けますし、もちろんその土地の地理的条件にも左右されます。
ロードス島の攻防戦の数十年前、オスマン・トルコ軍がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落し、東ローマ帝国は滅亡し、コンスタンティノープルはオスマン帝国の都となりました。当時、難攻不落と言われたコンスタンティノープルの大城壁突破の鍵となったのは大砲による集中砲撃でした。コンスタンティノープルの大城壁は内壁、外壁、堀の三重構造で、見張りのための塔が約40メートル間隔で配置されていました。ただ塔の役割は、ただ高く四角く固めているというだけで、防衛の要にはなっていませんでした。

このロードス島の二度目の戦いにおいてもオスマン・トルコ軍により大量の大砲が導入されることは必至でした。騎士団長デル・カレットはヴェネチアより築城技師を招聘し、ロードスの城塞をコンスタンティノープルの城壁とは全く異なるタイプのものに改造しましたが、それはこれまでの築城の常識を覆す革命的なものでした。

一つ目の特徴は、堀の大きさと城壁の厚みです。従来の城壁が地表より高々とそびえ立つ型の城壁であったのに対し、ロードスの城壁は建てるよりも掘るということが当たっており、防衛側も攻撃側も、ほぼ同じ高さに対置していました。ただし、両者を隔てる堀は、以前のものよりもかなり深く広いものに変わっていました。また二重の城壁の高さはさほどではないものの、厚みを大きく増しました。当時世界最強と言われたコンスタンティノープルの内城壁でさえ5メートルほどの厚さでしたが、ロードス島の城壁は10メートル以上の厚みに加え、さらに支えの壁をつけました。

もう一つの特徴は城壁から多角形で張り出しているいくつもの砦です。コンスタンティノープルの大城壁の塔と異なり、ロードスの砦はまさに防御の要でした。砦が張り出しているため多方面に攻撃することができ、かつ敵は砦を突破しないと城壁に近づくことができませんでした。逆の見方をすれば砦は多方面から攻撃を受けることにもなるのですが、少数の兵で大軍に立ち向かわなければならない聖ヨハネ騎士団にとっては、その不利を補うものとして採用されたと考えられます。

結末


二度目の防衛戦は聖ヨハネ騎士団の善戦にもかかわらず、圧倒的な兵力を誇るオスマン・トルコの大軍相手に消耗戦を強いられ、再三の降伏勧告も拒否し続けましたが、最終的にはオスマン・トルコ軍を率いるスレイマン一世による寛大な条件での降伏を受け入れ、ロードスは開城しました。しかし、その城壁は一部が破壊されたものの、ついに最後まで持ちこたえたのでした。その後、ロードスはオスマン・トルコ帝国の支配下に置かれましたが、騎士団はマルタ島に移転し、マルタ騎士団として活動を継続することとなりました。

余談ですが、私自身も15年ほど前に世界遺産となっているロードス島を訪れました。現在でもぐるりと一周保存状態が良く残っている城壁のスケール、そして城壁に囲まれたキリスト教とイスラム教の文化が融合する中世の面影の色濃い旧市街の美しさは、大変感動的なものでした。

【参考文献】
・ロードス島攻防記(塩野七生)等

◇MRAフェロー 伊東啓介

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