知っておきたい金融商品知識 第56回 ~リスクヘッジを内包したストックオプション設計(2)~
- ファイナンス・法務・会計・レギュレーション
- 知っておきたい金融商品知識
- 金融商品コラム
リスクヘッジを内包したストックオプション設計(2)
東京証券取引所がプライム市場およびスタンダード市場の全上場会社約3,300社を対象に推進している「資本コストや株価を意識した経営の実現」は、単にPBR(株価純資産倍率)が1倍を割り込む企業への改善要請という次元を超えて、投資家目線での企業価値向上への経営改善要請でもあった(東証2024.2)。そして、そこで期待される取組みの一つである「中⻑期的な企業価値向上のインセンティブとなる役員報酬制度の設計」としてのストックオプションについて、前回はそのさまざまなストラクチャーと税制を概観した。
自社株式やストックオプションの付与などは、株価を上げる手っ取り早い方法であるが、将来の成長機会のためではなく自分の任期での報酬獲得という短期的利益を追求するハイリスク投資を行ったり、自社株買いを進めたりする経営者リスクがあることから、リスク選好的になる単純な株式交付やストックオプションではなく、リスクヘッジを促すような仕組みを内包することが必要であると考えられる。今回は、そのような仕組みについて考えてみたい(項番は前回に続けます)。
なお、実際にストックオプションの発行を検討される場合には、弁護士と相談されたい。参考文献については本文末に掲示し、本文中は略記(氏名(発表年))する。
2.リスクヘッジを内包したストックオプション設計
(1)基本的な仕組み
近時のストックオプション(税制適格、非適格、無償型、有償型のいずれの形態においても)の多くは権利確定に関する条件が付されている。無償(職務執行の対価として)または有償(報酬と相殺することが多い)で、取締役や従業員等に一定のストックオプション(権利確定条件付き新株予約権)が割り当てられ、一定水準の営業利益や売上高等の「業績条件」や一定期間の「勤務条件」を達成することを権利確定(または行使)条件とするものだ。
株式取得までの流れは以下の通り。
・ストックオプションに付されている権利確定条件が満たされた場合、当該権利は行使可能となり、満たされなかった場合は失効する。
・会社は、権利が行使された場合、その役職員等に対して新株を発行するか、または自己株式を処分する。
・権利が行使されずに権利行使期間が満了した場合、権利は失効する。
・一般的に、権利は属人的なものなので、任期満了退任や定年で退職した役職員でない場合は、相続、譲渡、担保設定などの対象にできない仕組みにする。
(2)業績条件
実際には以下のような業績条件が付されていることが多い(定年退職等の勤務条件は除く)。
会計上の営業利益、経常利益などが一般的であろう。短期の業績条件として翌期の業績予想、中長期の業績条件として中期経営計画の利益と整合させる。リスク選好的にならないためには、後者の方が望ましいと思われる。
株主へのアカウンタビリティーの観点では、当期純利益が好ましいかもしれないが、特別損益は一般的に経営者の責任の範囲外であるため経常利益のほうが望ましいと思われる。また、執行役員や従業員にとって販売管理費に責任を負わせることが難しい場合は売上総利益を、財務活動に責任を負わせることが難しい場合は営業利益を業績条件にした方がいいケースがあろう。
業績条件をEBITDA(Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation and Amortization)にする場合も見られる。EBITDAは、税引前利益に特別損益、支払利息、減価償却費を加えて算出される利益で、営業利益および減価償却費振り戻しと言える。EBITDAは、国によって違う金利水準、税率、減価償却方法等の影響を排除し、かつ先行投資の影響を強く受ける減価償却費を振り戻すため、実質的な利益を算出できることから、中長期的な視点で企業価値を評価することが可能になるからだ(ただし、その計算においても保守的に発生主義の会計数値を使う必要がある)。
権利保有者が、リスク選好的になるモチベーションを抑制するためには、中長期的に安定した経営や営業活動に有効な仕組みが求められる。たとえば、権利行使を1度だけに設定するのではなく、年度を分けて、権利行使可能な金額も当初から分割して設定することが望ましい。
(3)譲渡制限付き株式(Restricted Stock:RS)
前回も概説した、一定の条件を達成するまでは譲渡(売却)が制限される「譲渡制限付き株式」も有効だ。役職員に報酬として事前に割り当てられた譲渡制限付き株式、すなわち一定の業績条件や勤務条件の達成がなければ株式の譲渡ができない仕組みであるため、業績向上への意欲を高めたり、人材の流出を抑制する効果がある。ストックオプションとは違って権利行使しなくとも株式が入手できるため、譲渡制限期間中であっても、配当を得たり、株主総会の議決権を持ったりすることは可能だ。ただし、株式が付与された役職員が期間内に離職するなど条件を達成できなかった場合には、譲渡制限が解除されず、会社が株式を無償で取得(没収)して、役職員は報酬を得られないことになる。ストックオプションでの株価下落が直接的な損失につながらず、権利者のインセンティブになりにくい点と違い、より強いモチベーションが働くと言える。
業績条件は、上記のストックオプションと同様であり、やはりリスク選好的になるモチベーションを抑制する仕組みが望ましい。
(4)東証2024.1で示された事例
東証は、中⻑期的な業績や企業価値向上と連動性の⾼い役員報酬制度の例として本年2月の「投資者の視点を踏まえた「資本コストや株価を意識した経営」のポイントと事例」(別紙)において、住友林業とラクスルの2社を紹介している。本稿でも触れておきたい。
イ.住友林業
当社は、2022年2月の取締役会にて役員報酬制度を見直し、現在も以下の内容を継続している(当社決算報告会資料より)。
>> 取締役の報酬構成:固定報酬比率60%、賞与25%、業績連動型譲渡制限付き株式報酬15%
>> 賞与(25%)の算定方式:標準賞与×連結経常利益(退職給付会計に係る差異や非支配株主帰属分を除く)の目標達成率(ただし、利益が倍額以上になっても180%が上限)
>> 業績連動型譲渡制限付き株式報酬(15%)の算定方式:以下の2項目の合計
・株式時価総額成長率(株式報酬の3分の2の構成)
株式時価総額成長率/TOPIX成長率(120%が上限)
・3年間のサステナビリティ指標達成率(株式報酬の3分の1の構成)
当社の温室効果ガス排出削減の中計目標値の達成率(100%が上限)
業績に連動する各項目(合計で報酬全体の40%)に上限が設定されていることから、リスク選好的な経営になることが回避されているといえる。ただし、最後のサステナビリティ目標(報酬全体の5%)以外は1会計年度の実績で取締役の報酬が決まることになる。株式時価総額を指標にしているということは、投資家が中長期的な視野で投資しているということを背景にしているということだろう。
ロ.ラクスル
当社は、印刷通販サイトを運営する会社であり、「新CEOが雇われ経営者ではなく、次の10年の企業価値拡大のための“創業者“になることを企図し、株主と目線を合わせる複数のアラインメントツールを設定」「金銭報酬は上場企業経営者の水準より低くする一方、株式報酬の割合を最大限高く設定することで長期コミットを促す」ことを目的として、以下の報酬制度を取り入れている(当社決算説明会資料および統合報告書より)。
>> CEO向け
・固定報酬部分15%程度、その他85%程度
・譲渡制限付き株式報酬:各事業年度末までCEOとして在籍し、連結売上総利益が前年比15%超成長することを条件として、10年度分の総額が設定されている株式報酬のうち各事業年度終了後に10%ずつ譲渡制限を解除
・有償ストックオプション:付与から5年後以降、株価およびEBITDAの3段階基準を設定し、それぞれクリアすると権利行使可能金額が一定額ずつ増加
>> 取締役、従業員向け
・取締役向け固定報酬部分70%程度、その他30%程度
・一定の在籍年限に応じた取締役向け譲渡制限付き株式報酬と従業員向け1円ストックオプション
・今後2年間におけるEBITDAで2段階基準を設定し、それぞれクリアすると権利行使可能金額が一定額ずつ増加する有償ストックオプション
当社の報酬設計は、会社の業績向上と強くリンクしながらも、リスク選好にならないように設計になっていると評価できる。業績条件が段階的に達成されると行使可能なベネフィットが定額になっており、すなわち報酬が業績に対して階段状のグラフになっているので、これは野放図な上値ねらいを抑制するといえる。本連載第32回で説明したように、経営者個人への報酬(経営者の期待効用といえる)が企業価値に対して凹関数(上に凸のグラフ)となると経営者はリスク回避的な行動をとり、企業価値のヘッジを遂行することになるからだ。
(参考文献)
東京証券取引所「投資者の視点を踏まえた「資本コストや株価を意識した経営」のポイントと事例」2024.2.1
https://www.jpx.co.jp/news/1020/20240201-01.html
経産省HP「ストックオプション税制」
https://www.meti.go.jp/policy/newbusiness/stock-option.html
国税庁「ストックオプションに対する課税(Q&A)」2023
https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kihon/shotoku/kaisei/230707/pdf/02.pdf
住友林業事例
https://sfc.jp/information/ir/library/statements/pdf/2023-2q_gaiyo.pdf
ラクスル事例
https://ssl4.eir-parts.net/doc/4384/ir_material_for_fiscal_ym/141637/00.pdf
https://corp.raksul.com/ir/library/integratedreport/
◇客員フェロー 福島良治
知っておきたい金融商品知識 第55回 ~リスクヘッジを内包したストックオプション設計(1)-ストラクチャーと税制~
知っておきたい金融商品知識 第54回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(8)~
知っておきたい金融商品知識 第53回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(7)~
知っておきたい金融商品知識 第52回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(6)~
知っておきたい金融商品知識 第51回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(5)-本年2月の東証資料を読み解く~
知っておきたい金融商品知識 第50回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(4)-銀行の対策を参考にする~
知っておきたい金融商品知識 第49回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(3)~
知っておきたい金融商品知識 第48回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(2)~
知っておきたい金融商品知識 第47回 ~東京証券取引所が提唱したPBR1倍超え対応について(1)~
知っておきたい金融商品知識 第46回 ~航空会社に視る燃料費リスクマネジメント事例(3)~
知っておきたい金融商品知識 第45回 ~航空会社に視る燃料費リスクマネジメント事例(2)~
知っておきたい金融商品知識 第44回 ~航空会社に視る燃料費リスクマネジメント事例(1)~
知っておきたい金融商品知識 第43回 ~企業はリスクをなぜヘッジすべきなのか-最新の論文から~
知っておきたい金融商品知識 第42回 ~企業はリスクをなぜヘッジすべきなのか-さまざまな研究成果~
知っておきたい金融商品知識 第41回 ~企業はリスクをなぜヘッジすべきなのか-実証研究から(2)~
知っておきたい金融商品知識 第40回 ~企業はリスクをなぜヘッジすべきなのか-実証研究から(1)~
知っておきたい金融商品知識 第39回 ~ヘッジによる企業価値の向上-EVA®・ROEの向上と安定化(3)~
知っておきたい金融商品知識 第38回 ~ヘッジによる企業価値の向上-EVA®・ROEの向上と安定化(2)~
知っておきたい金融商品知識 第37回 ~ヘッジによる企業価値の向上-EVA®・ROEの向上と安定化(1)~
知っておきたい金融商品知識 第36回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(7)~
知っておきたい金融商品知識 第35回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(6)~
知っておきたい金融商品知識 第34回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(5)~
知っておきたい金融商品知識 第33回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(4)~
知っておきたい金融商品知識 第32回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(3)~
知っておきたい金融商品知識 第31回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(2)~
知っておきたい金融商品知識 第30回 ~企業はなぜリスクヘッジすべきなのか-ファイナンス研究から(1)~
知っておきたい金融商品知識 第29回 ~個別契約へのリスクヘッジと資産・負債全体へのALMリスクヘッジ(3)~
知っておきたい金融商品知識 第28回 ~個別契約へのリスクヘッジと資産・負債全体へのALMリスクヘッジ(2)~
知っておきたい金融商品知識 第27回 ~個別契約へのリスクヘッジと資産・負債全体へのALMリスクヘッジ(1)~
知っておきたい金融商品知識 第26回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(7)~
知っておきたい金融商品知識 第25回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(6)~
知っておきたい金融商品知識 第24回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(5)~
知っておきたい金融商品知識 第23回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(4)~
知っておきたい金融商品知識 第22回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(3)~
知っておきたい金融商品知識 第21回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(2)~
知っておきたい金融商品知識 第20回 ~海外子会社向け出資金等の為替変動リスク(為替換算調整勘定)のヘッジの是非について(1)~
知っておきたい金融商品知識 第19回 ~包括的中長期為替予約(いわゆるフラット為替)について(3)~
知っておきたい金融商品知識 第18回 ~包括的中長期為替予約(いわゆるフラット為替)について(2)~
知っておきたい金融商品知識 第17回 ~包括的中長期為替予約(いわゆるフラット為替)について(1)~
知っておきたい金融商品知識 第16回 ~金融商品の法令上の内部統制等(2)~
知っておきたい金融商品知識 第15回 ~金融商品の法令上の内部統制等(1)~
知っておきたい金融商品知識 第14回 ~ヘッジ取引のディスクロージャー~
知っておきたい金融商品知識 第13回 ~ヘッジ会計の要件(6)~
知っておきたい金融商品知識 第12回 ~ヘッジ会計の要件(5)~
知っておきたい金融商品知識 第11回 ~ヘッジ会計の要件(4)~
知っておきたい金融商品知識 第10回 ~ヘッジ会計の要件(3)~
知っておきたい金融商品知識 第9回 ~ヘッジ会計の要件(2)~
知っておきたい金融商品知識 第8回 ~ヘッジ会計の要件(1)~
知っておきたい金融商品知識 第7回 ~ヘッジ会計処理の例(金利スワップ取引)~
知っておきたい金融商品知識 第6回 ~時価算定におけるインプットと第三者価格~
知っておきたい金融商品知識 第5回 ~会計基準における時価の算定方法~
知っておきたい金融商品知識 第4回 ~金融商品の時価の定義~
知っておきたい金融商品知識 第3回 ~デリバティブ取引会計制度のルールを確認して全体を把握する~
知っておきたい金融商品知識 第2回 ~デリバティブ取引会計制度の導入経緯を振り返る~
知っておきたい金融商品知識 第1回 ~バーゼル規制が金市場に影響を与えるのか?という話題について~